スタートライン


一人暮らしをしながら、月2回は趣味であるヨットの練習で海に出るなどアクティブな日々を送っている小倉恵子さん。今年の夏、3代目のパートナーとなる盲導犬イロリがやってきました。「これまでの子より一回り大きくて、最初は驚きましたが、人懐っこくて愛くるしい子なんです」と、小倉さんは顔をほころばせます。甘えん坊で、家でも職場でもいつもそばにいてくれるイロリ。ハーネス越しに伝わるやさしい揺れとともに、互いを知り、歩み寄っていく二人の日々をお届けします。
初代リルハ、2代目ブリスを見送り、3代目のパートナーとして迎えたイロリは、少しおおがらな女の子。「体格のわりに歩幅が狭く、スピードもゆっくりしていて、お尻をフリフリ左右に揺らして歩く姿はモンローウォークさながら。公園のような広い場所を歩くときなど、障害物のない空間をぶれずに真っ直ぐ歩く上手さに感動している一方で、左右に揺れる歩き方やハーネス越しに伝わる揺れには、私自身まだ慣れきっていない部分もあります。これまでのパートナーたちとはまた違う、イロリらしい歩き方です。個性に合わせて、私自身も少しずつ歩み寄っていきたいですね」と小倉さん。歴代のパートナーたちと関係を築いてきた小倉さんだからこそ、イロリらしいペースを大切にしながら、二人ならではのリズムを見つけようとしています。
3頭目のパートナーとはいえ、犬の性格や歩き方はそれぞれ違います。イロリとの共同訓練では「新しいパートナーと信頼関係を築き、スムーズにチェンジングマスター(※1)できるだろうかと、最初は少し悩みました」と小倉さん。部屋に戻ると、ふと遊びを通じたコミュニケーションを思い出し、足元にあった簡易スリッパを投げてみました。すると1回目は上手に持ってきてくれたものの、2回目でイロリがスリッパに噛みつきボロボロにしてしまいました。 「それが癖になると、家中のスリッパがボロボロになってしまう、と訓練士さんに言われて、ハッとさせられました」と振り返ります。
また、訓練を終えて宿舎の自室へ戻る際、自分の部屋のドアが分かるよう、入口に目印としてハンカチを結んでおきました。イロリにも「ハンカチ、ハンカチ…」と呪文のように唱えてその場所を教えると、一度で覚え、指示をすれば迷うことなく、ハンカチのある部屋まで案内してくれたのです。 「一回教えただけで、ちゃんと覚えてくれて! 言葉が通じたみたいで、一気に頼もしさを感じた瞬間でした」と言います。
こうした試行錯誤を重ねつつも、イロリの無邪気で天真爛漫な性格に助けられて、少しずつコミュニケーションの土台を築いていきました。
一人暮らしをしながら企業に勤める小倉さんですが、毎日の通勤ではバスと電車、さらにバスへと乗り継ぐ必要があります。そんな複雑な乗り継ぎもイロリはすぐに覚えました。通勤時は頼もしいパートナーですが、普段はとにかく甘えん坊で人懐っこい性格です。
自宅では小倉さんの後を追い、頭を撫でてもらうのが大好きという、癒やしの存在。一方、職場では仕事中の移動時以外、足元に置いたベッドで静かに過ごします。大きな体で、おおらかにいびきをかいて眠る愛くるしい姿を見せることも。「職場のみんなに“大物だね(笑)”と愛されています」。 そんな愛くるしい表情や甘える姿に触れるたびに、小倉さんはイロリへの愛おしさをいっそう募らせます。「私にとっては3頭目でも、イロリにとってはたった一人の、初めてのパートナーということを実感させられます。だからこそ、この子との一日一日を大切に重ねていきたいですね」。
また、街中を歩く際には、バス停や駅のホームで、周囲の方が自然と気遣って、案内してくれることも多いそう。「見知らぬ人からのサポートも、盲導犬と歩くようになってからのうれしい変化でした」と語ります。
そんな温かな日常の中には、お互いの違いを知り、生活をすり合わせていく丁寧なプロセスがあります。盲導犬は、人が使う椅子やベッドには乗らないよう躾けられていますが、誤って小倉さんのベッドに乗ってしまったというトラブルも。毅然とした態度で「いけない」と教えることでイロリも理解し、それ以来繰り返すことはなくなりました。「歴代のパートナーよりも体格が大きいこともあって、テーブルの上のものやガスコンロのスイッチにも手が届きやすいんですよ。今は、彼女の体格や好奇心旺盛な性格を理解して、コンロにチャイルドロックをかけたり、机の上には必要以上にものを置かない習慣をつけたりと、イロリとの生活だからこその工夫や心配りをするようになりました」。こうした日々の試行錯誤や生活環境づくりそのものが、互いへの理解を深める大切な時間となっています。

ユニバーサルデザインの2人乗りヨット「ハンザ」に乗り込み、パートナーとともに操艇。力を合わせて風を捉え、セーリングを楽しんでいます
趣味でヨットを楽しんでいる小倉さん。ヨットとの出会いは高校時代でした。その後、視力が低下してきたものの障害者手帳を持たずに生活していたころ、視覚障害者が音や風を頼りにセーリングを行う「ブラインドセーリング」の体験会に参加。高校時代に培った経験と技術が高く評価され、なんとマイアミで開催される世界大会の日本代表チームに誘われたのです。急きょ障害者手帳を取得して渡米し、見事3位・銅メダル(※2)を獲得しました。
当時、日本のセーリング仲間には盲導犬ユーザーが増えつつありましたが、小倉さん自身は「全盲でなければ盲導犬は持てない」と思い込んでおり、まだ自分には遠い存在だと感じていました。しかしその後、近所に住んでいたパピーウォーカーボランティア(※3)の方から協会の盲導犬体験歩行会に誘われました。障害物を気にせず、風を切って歩く感動を味わったことが、自身も盲導犬を迎える大きな決定打となりました。
海を愛し、常に前を向いてアクティブに挑戦を続けてきた小倉さん。イロリという新たなパートナーを得た今、未来への夢はさらに広がっています。「いつかイロリと一緒にヨットの世界大会で海外遠征をしたり、ユニバーサルデザインの小型ヨット『ハンザ』や大型のクルーザーに乗って一緒に風を楽しんだりしてみたいですね。また、大好きな歌舞伎座の一幕見の常連客になったりするのも夢のひとつです」と前向きに語ります。まだスタートラインに立ったばかりの二人ですが、これからも共に歩む日々のなかでお互いを知り、二人ならではの歩き方と確かな信頼関係を築いていきます。
※1 盲導犬が、訓練士から新しいユーザーへとパートナーの認識を切り替え、信頼関係を築いていく過程のこと
※2 ブラインドセーリングでは、視覚障害者の見え方の程度(障害クラス)によって B1からB3までのカテゴリーに分かれています。小倉さんは当時B3クラスで世界の強豪選手と競い、見事銅メダルを獲得しました。
※3 生後約2か月からの約1年間、盲導犬候補の子犬を家族の一員として自宅で迎え入れ、愛情を込めて育てるボランティア家族のこと。

9月に開催された東京ヨットクラブ主催のレースに、JBSA(日本ブラインドセーリング協会)のチームの一員として参戦した小倉さん。クルーザーの舵を握り、顔にあたる風の向き、波の音、船の傾きなどを全身で感じ取り、最もスピードに乗る角度をキープします。チームみんなの頑張りで、本大会では見事優勝を果たしました