スタートライン


長野市にお住まいの滝澤千佳子さん。彼女の新しい日常の中心には、体重42キロという大柄で穏やかな盲導犬・メブキの姿があります。「この大きさに、毎日うっとりしちゃうんです」と声を弾ませる滝澤さん。すべてを包み込むような雰囲気を持つメブキは、どこか亡きご主人を思わせる愛おしい存在でもあります。コロナ禍での孤独や葛藤を経てメブキと出会ったことで「移動」から「楽しいお出かけ」へと変わった滝澤さんの暮らし。前を向いて新しい一歩を踏み出した、二人の温かな日常をお届けします。
滝澤さんは高校生のころにはすでに左目の視力を失っており、夜盲の症状もありました。その後も徐々に視野が狭くなっていきます。そんな中、松本盲学校の教師として働いていたころに出会ったのが、同じ病気を抱える盲導犬ユーザーの生徒でした。
どこへ行くにも盲導犬と一緒で、信頼し合いながら過ごすその姿に、滝澤さんは強く心を動かされたといいます。 ある日、その生徒からかけられたのが、「先生、もし見えなくなっても、盲導犬と暮らすという選択肢もありますよ」という言葉でした。病気が進行した先にも、穏やかで幸せな暮らしがある――。そのことを初めて実感した瞬間でした。その後、滝澤さんは結婚・出産を機に退職。子育てをしながら、地域で読み聞かせボランティアを続けてきました。
視力の低下が進むなかでも、独学で白杖歩行を続け、ご主人のサポートも受けながらアクティブに生活していました。しかし、コロナ禍が大きな転機となります。人との距離が求められるなか、誰かに手引きをお願いすることが難しくなり、一人で外出する不安や孤独を強く感じるようになったのです。
駅で小銭を落としてしまったときのこと。周囲から心配する気配は伝わってくるものの、人との距離が求められる時期だったためか、誰も近づいてはくれません。滝澤さんは当時の状況をこう振り返ります。「落とした小銭が見つけられなくて、地面にはいつくばるようにして探したんです。あのときの心細さは、今でも忘れられません。あらためて、自分のことは、自分でできるようになりたいと思いました」
そうして盲導犬を希望することを決意します。ただ、実際に盲導犬を迎えるまでには2年ほどの待機期間がありました。待期の間に、指導員から「白杖でしっかりと一人で歩けていることが、将来の盲導犬とのスムーズな歩行訓練にもつながりますよ」というアドバイスを受けます。これまでは独学だった白杖歩行でしたが、長野県立総合リハビリテーションセンターで本格的に白杖歩行を学び直すことにしました。
白杖で歩くときは、頭の中に地図を細かく入れ込みます。段差、点字ブロック、音の反響――。「今どこにいるのかを常に確認しながら進むため、“安全に目的地へたどり着くこと”に集中せざるを得ません。景色を楽しむ余裕はなかったですね」
そんな日々を送る中で、滝澤さんに大きな出来事が起こります。盲導犬との生活を誰よりも楽しみにしていたご主人が急逝されたのです。「心に大きな穴が開き、もう無理かもしれない、盲導犬との暮らしもあきらめようかと思いました」深い喪失感の中、ご主人の告別式の日に「滝澤さんの担当訓練士が決まりました」と連絡が入ります。後ろ向きになりかけていた滝澤さんの背中を押したのは、お子さんたちでした。「お父さんとあんなに楽しみにしていたのに。前向きに進むべきだ」と。こうして滝澤さんのもとにメブキがやってきました。
「主人が体の大きな人だったので『大きな子がいいな』という思いはありました」盲導犬は、歩く速度などから総合的にマッチングされますが、専門的な適性判断を経て選ばれたのは、偶然にも体重42キロの大柄なメブキでした。
家族からも「お父さんみたいだね」と言われたそうです。「大きな体だけでなく、おだやかで優しいところ、でも少し神経質な性格まで似ているんですよ」と滝澤さんは笑います。

おだやかで大柄なメブキが、足元に頭を乗せて甘えるひととき。お互いの存在が愛おしい、幸せなおうち時間
富士ハーネスでの共同訓練で最初に教わったのは、「ヒール(左につけ)」というコマンドでした。滝澤さんは当初、リードで犬を“操作する”感覚を持っていたといいます。「自分が引っ張って歩かせるものだと思っていたんです」ところが訓練士から「カラー(首輪)を外してみてください」と言われます。メブキを待たせ、少し先へ歩いてから「カム(来い)」「ヒール」と声をかけると、何もつけていない状態でも、メブキはぴたりと横につきました。「メブキの中には、もう“ヒール”が入っているんだと知りました」
引っ張ろうとするほど、メブキは違う方向へ行こうとする。反対に、信頼して任せると、自然と力を発揮してくれる。それはとても大きな学びでした。「彼の持っている力を引き出すことが、私の役目なんだと気づきました」
共同訓練中、特に印象に残っているのが、土砂降りの雨の中行われた交通訓練です。車が接近してきた状況を想定し、盲導犬がきちんと止まれるかを確認する難易度の高い訓練でしたが、メブキは見事に立ち止まりました。実はその周囲では、職員たちが“影武者”のようにあらゆる方向から見守り、訓練を支えていました。「訓練後に職員さんたちが一斉に表に出てきて! 私、こんなに見守られて歩いていたんだって感動したんです。その瞬間、コロナ禍の駅ではいつくばって小銭を拾っていたときの孤独や悲しみが、ふっと溶けていくのを感じました」
訓練後、職員の一人から「冷えたと思うので柚子湯にしてください」と手渡された柚子の香りが部屋に広がったとき、「ここはなんて幸せな場所なんだろう」と感じました。「メブキと二人でも、みなさんがついていてくれる感覚が今も残っています。だから私は歩いていける、という安心感が心にあります」
白杖歩行では、危険を察知し続けるため身体が緊張してしまいます。でも、メブキと歩き始めてからは、風や匂い、道の広がりを感じられるようになりました「歩くことが、“目的地までの移動”ではなくて“楽しいこと”になったんです」
もちろん、実際の生活が始まってからは悩むこともありました。自分のほうが道に詳しい分、メブキに任せるところを任せきれずに、つい自分が主導して歩いてしまう時期があったのです。メブキが「自分がいなくても行けるんだ」と、自らの役割を滝澤さんに取られてしまったと感じたのか、ある時、メブキの集中力がふっと切れて強く匂い嗅ぎをしてしまい、安全に歩くことが難しくなるハプニングが起きました。「このままで私たちは大丈夫なのかなと不安になりました」
フォローアップで滝澤さんの元を訪れた訓練士は、すぐに二人の関係性の変化を見抜きます。そこであらためて、家の中でヒールの練習をやり直すことにしたのです。「OKをちゃんと伝えられていなかったし、“これくらいで及第点かな”と、どこかで思っていた部分もありました。でも、メブキは完璧にできる子。100点を求めて、できたことをしっかり褒め、信頼する。その積み重ねによって匂い嗅ぎはなくなり、歩きもスムーズになりました。自分とメブキ、お互いの役割をしっかりと認識した上で、任せるべきところは信頼して任せて歩く。その大切さをあらためて学びました」

「目が見えなくてもこんなに幸せだよ」と読み聞かせで体現する滝澤さん。子どもたちに物語と笑顔を届ける活動を、足元でそっと寄り添うメブキが支えています
いま、滝澤さんはメブキとともに、月に10回以上、学校でのストーリーテリング(読み聞かせボランティア)に出かけています。「子どもたちに昔話や物語を楽しんでもらいながら、私がこうして大好きな読み聞かせを続けている姿を通じて、子どもたちに『目が見えなくても、こんなに幸せに生きているんだよ』ということが伝わればうれしいですね」
ご主人と何度も登ったアルプスの山々にも、「頂上までとは言わないですが、いつかメブキと一緒に行けるところまで行ってみたいです」 そう話す滝澤さんの声からは、これからの暮らしへの前向きな希望があふれていました。